 |
| 企業の社会的責任 |
 |
|
| 犬塚潤一郎 (実践女子大学生活文化学科助教授) |
|
伝統的な近江商人の商業理念を伝える「三方よし」という言葉は、もともと近江商人の間で広く使われていた言葉ではなく、近江商人の活動を研究する中から見つけ出された言葉であるといわれています。
「売り手よし 買い手よし 世間よし」という表現によって表される考え方は、それ自体が驚きを持って捉えられるような独創的なものではありません。近江商人でなくても、また違う時代、違う社会であっても、似たようなことが唱えられることは少なくありません。
近江商人において際立ったことは、それが実践において具体的な意味を持つように取り込まれたことです。栄枯盛衰が激しい商業者の歴史にあって、近江商家が例外的に長い事業継続を果たしてきたことの行動原理が、そこにあるのではないかと見られています。
いつの時代にも変わらないこと(基本的な考え方)は、いつの時代にも新しい(固有の現れ方をする)。基本的な価値概念や規範というものは、その時代、その社会の状況にぴったりと合うような実践方法としてつくりあげられなければなりません。歴史的な近江商人は、状況や社会の変化に合わせて革新を続けてきたものといえます。
それでは、今のこの時代において、三方よしとはどのような行動原理や実践に結びつくものでしょうか。「企業の社会責任Social
Responsibility」という言葉が、そのことを考えるための大きな鍵となることと考えられます。
企業活動において社会責任を考えるということは、欧米の企業を中心として、今日世界中で広くテーマとされています(国連の活動では、グローバル・コンパクトという取り組みが行われています)。そこには2つの大きな特徴があります。
第1は、従来の、企業の社会貢献やフィランソロピーphilanthropyのような、企業が本業(事業活動)とは別に、その余剰(利益や組織力)をもって社会のためになることをしよう、ということではなく、事業活動(ビジネス)の中核に、社会をよりよくすることを組み込んでゆこうとすることです。ビジネスはビジネス、余ったお金の使い方はまた別、というのではなくて、企業の存在そのもの社会のためによいことgood
businessであるようにしようとする経営原理です。
市民の側から見れば、もうけたお金でいいことをしよう、やってあげようという態度ではなくて、最初からいいことをやってくれ、という企業に対する見方です。
第2は、社会責任に対する管理を誰がやるのか、ということです。ちゃんと責任を果たしているかどうかをチェックする仕組みの問題です。従来の企業会計における監査役や会計事務所による会計監査のようなやり方、つまり内部的・閉鎖的な自己管理手法ではなくて、外部・社会一般に対して、自社の目標や活動結果を(成功も失敗もどちらも)オープンにし、市民がそれを評価できるようにしてゆく、ネットワーク的な監査の関係を社会につくりあげてゆく(あるいはそのネットワークに参加する)という社会会計SocialAccountingの手法をとることです。この場合、企業の内部で社会責任感差を担当するスタッフは、自分で自分を評価するような馴れ合いにも陥りがちな従来的なやり方ではなくて、内部を正しく調べてことを外に向かって正しく伝え、社会の側の(NGO)とのコミュニケーションを取り結ぶことが職務となります。
市民との間の関係を、売り買いや施しのようなものではなくて、ともに社会を生きる同士の当事者stakeholder関係としてみることでもあります。
以上の点から見ると、言葉遊びのようですが、「三方よし」は、「売り手→買い手→世間」という順序だけでなくて、「世間→買い手→売り手」つまり「世間よし(社会責任)
買い手よし(顧客満足) 売り手よし(企業存続)」という順序で考え直す必要もあるといえます。
ここで大切なことは、それでは「世間」とはいったい何か、ということでしょう。時代や社会の違いによって、「買い手」の姿が変わったり、「よし」と認められることの意味内容が変わったりすることがあるでしょうが、今日の社会にとって、特に従来とは大きく違って受け止められていることが、「世間」という言葉をどう考えるかということです。
三方よしの「世間」にはまず、企業や人々が属している「社会」という意味があるでしょう。そしてそれだけでなく、「こんなことをしてはお天道様に申し訳ない」という感覚と一致するような、目に見える直接の関係としての社会を超えた、基本的な「価値観念」や「価値観」という意味が込められていると考えられます。
まず、基本的な価値観念や価値観については、時代とともに捉え方が違ってくるという流行に通じる面とともに、その根本のところはあんがいに変わらないものだという普遍性との二面があるようです。一方、社会についての捉え方についてはどうでしょうか。社会とは、安定しているときは、それが何であるかということを皆があらためて意識することすらあまりない、わかりきったものであり、いわば空気のように透明なものなのですが、一方、社会運動の時期にあっては、その正体が何なのかわけのわからない、難題として突如登場してくるものでもあります。
今この時代にあって、社会としての世間は、どのようなものなのでしょうか。ここしばらくの間、経済停滞の時期と重なるように、社会として捉えられるもの、その内と外との間の不整合が、様々な問題として新聞やテレビのニュースを通じて報告され続けてきているようです。
企業の内の論理と社会の判断との決裂、ビジネスのグローバル化がもたらす地域間の経済衝突、国家間の理念・価値観の対立、あるいは、組織の世代間や家族の親子間における基本的なものの捉え方や感性の剥離などなど。内側の価値観やルールと、外側のものとの間に容易には解消できないような開きや対立、すれ違いが生じています。
そのことをビジネスの側から見れば、それぞれの事業のスケールと様々な状況の上で、何がよいのか、何のために働くのか、そのような当たり前のことがわからなくなってしまっていることにつながっているようです。この複数の社会間の違いの問題は、それは社会の内部の分裂とともに違う社会との出会いによって生まれるようですが、信じることのできるものへの揺らぎ、また行動原理の弱体化や消失をもたらしています。そして、この社会的な意識の不安定さの影響を、(本人たちはあまり知ることもなく)若い世代が引き受けさせられてしまっているようでもあります。
この状況を乗り越えているためには、新しい価値観や行動原理をつくりだして、新たな統一を図るべきでしょうか。いえ、むしろ難しくはありますが、異なる複数の社会はそのままに、あるいはそれぞれの違いを尊重しあう、多元的な協調関係づくりにむけて努力を集中すべきであるように考えられます。
21世紀社会の世間はひとつではない。それが新しい認識の本質であると考えられます。では、どうやってそこに個別の努力と相互の協調関係を築いてゆけるのか。
企業の社会責任の考え方における、あらゆる関係者をそれぞれの関わり合い方に応じて分類して、個別に目標を定めて結果評価してゆく方法も、多元社会に対する行動の仕方を示すものでしょう。今、私たちは新しい状況に合わせた自らの行動原理を築く必要があります。
今日の日本社会をつくる動因であった近江商人の三方よしの考え方。その伝統を新しい社会と新しい人間のあり方に生かすこと。容易なことではありませんが、歴史的な近江商人の取り組みも、無論簡単なことではなかったはずです。
これからの社会に求められる活力とは、単純なカラ元気でも、古い一元主義に立ち返り新たな現実に目をつぶることによってでもなく、多様な世間と上手に関係を取り結ぶように、多元的な行動原理を実践する努力にかかっているのではないでしょうか。 |
| |
|
|