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| 用語解説(同志社大学経済学部教授 末永國紀) |
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| 近江商人関係 |
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- 三方よし(さんぽうよし)
近江商人の行商は、他国で商売をし、やがて開店することが本務であり、旅先の人々の信頼を得ることが何より大切であった。そのための心得として説かれたのが、売り手よし、買い手よし、世間よしの「三方よし」である。取引は、当事者だけでなく、世間の為にもなるものでなければならないことを強調した「三方よし」の原典は、宝暦四(1754)年の中村治兵衛宗岸の書置である。
- 正直・信用
今昔にかかわらず、商人にとって何よりも大切なものは信用である。信用のもととなるのは正直である。外村与左衛門家の「心得書」でも、正直は人の道であり、若い時に早くこのことをわきまえた者が、人の道にかなって立身できると説く。正直は、行商から出店開設へと長い年月をかけて地元に根いて暖簾の信用を築き、店内においては相互の信頼と和合をはかるための基であった。
- 出精専一(しゅっせいせんいつ)
商売一筋に励むことであり、商人として成功するには欠かせない要素である。近江商人の屋号に、山星金星・星久・大星など星をつけたものが多いのは、朝は星を抱いて商売に出かけ、夕べは月影を踏んで帰宅する勤勉を象徴しているからである。坪田与治右衛門は、冬でも一面の銀世界を一番に足跡をつけて商用に出かけなければ気が済まず、他人の足跡を踏むことを恥辱としたという。
- 商売替法度(しょうばいがえはっと)
山中兵右衛門家の二代目が定めた家訓「慎」の第九条には、端的に「商売替無用之事」とある。初代の創業の苦労や二代目の守成の難を知らない子孫のために記された条文であり、未熟な後継者が新規なものに飛びつき、すべてを無くすような危険を予防するための備えである。同時に、代々守り伝えてきた家風や仕法も崩すことなく、堅固に相続することを求めていると解される。
- 利真於勤(りはつとむるにおいてしんなり)
唐の詩人韓愈の「業精於勤(業は勤において精し)」、から転用して作られた言葉であり、小倉栄一郎によれば伊藤忠兵衛の座右の銘という。商人の手にする利益は、権力と結託したり、買占めや売り惜しみをしたりせず、物資の需給を調整して世のなかに貢献するという、商人の本来の勤めを果たした結果として手にするものでなければならない。そうした利益こそ真の利益であるという意味である。
- 天性成行(てんせいなりゆき)
取引や相場の判断に際しての態度のことである。外村与左衛門家の「心得書」によく出てくる言葉である。取引における基本的な立場は、自分の都合や勝手をだけを優先させず、また思惑をせず、自他ともに成り立つことを考え、売買価格の決定もそのときの天性成行に従うことを求めている。だから損もあれば益することもあるのであり、損益は長期的平均にみることが大事だという。
- しまつしてきばる
近江商人に共通な日常の心構えである。倹約につとめて無駄をはぶき、普段の生活の支出をできるだけ抑え、勤勉に働いて収入の増加をはかる生活を表現している。「しまつ」は単なる節約ではなく、モノの効用を使い切ることであり、「きばる」は、近江地方では「おきばりやす」という挨拶につかわれているくらい日頃から親しまれた言葉である。近江商人の天性を一言で表現している。
- 暖簾(のれん)
近江商人の家訓に「暖簾」という文字を見出すことは難しい。しかし、奉公人に別家を認める際の祝い品のなかには、たいてい暖簾が含まれている。それは、大切な屋号を長年の勤功と信用の証しとして与えているのである。主家の一統であることを示す暖簾は、世間の信用も厚く、別家として独立した商売を始めようとする奉公人にとっては、何よりの資本といえるものであった。
- 本宅勤め
近江商人は本宅を近江の在所におき、出店を全国に展開した。本宅勤めとは、丁稚奉公に入った奉公人が、本宅を守って取り仕切る妻や当主の母親から、数ヶ月あるいは1年ほど、行儀作法や読書算盤などの店員教育をうけることである。単なる実用教育だけでなく、奉公人の性格や才能等の人体をみきわめてから各出店へ配属するのであり、商人として不向きならば親元へ戻される。
- 天秤棒と星(てんびんぼうとほし)
天秤棒は行商を本務とする近江商人にとって、防御用の用心棒となる心強い旅の友でもあり、資産を稼ぎ出す立身出世のシンボルでもある。星は、幾重もの峠道をものともしない勤倹の旅にあらわれる瑞兆を意味し、また、早朝から日暮れにいたる日々の努力の象徴である。近江商人を代表する松居久左衛門家は、天秤棒と星を組み合わせた図案を屋印に選び、屋号を星久と称した。
- 薄利多売(はくりたばい)
近江商人は、行商のときから卸商であり、出店を持った後も卸
小売業である場合が多い。小売商人相手のときは、外与の家訓のように、売る側が悔やむくらいの薄い口銭で我慢することを商いの極意とした。西川甚五郎家の「家訓」も、たとえ品薄のときであっても余分の口銭を取るような、世間の害になる取引を禁じている。「薄利広商」を座右の銘としたのは、二代目塚本定右衛門である。
- 諸国産物廻し(しょこくさんぶつわまし)
行商の行き返りに商売をする持下り商いの大規模化した商法である。持下り商いに成功して、出店を東西に展開するようになると、出店相互間の情報ネットワークを利用して、広範囲で需要と供給を調整し、価格の地域差を巧みに利用することができるようになり、近江商人の豊かな富の源泉となった。中井源左衛門家の京阪と奥羽の出店を利用した産物の交流は、典型的な事例である。
- 出店・枝店(でみせ・えだみせ)
出店を設ける場所の選定には、「三里四方釜の飯を食うところに店を出せ」ということわざが残っている。釜の飯を食べるような、豊かな購買力のあると見込みをつけたところが開店地として有望であるという意味である。出店を中心に、さらに要地をもとめて開いた出店の支店を枝店とよんだ。こうして、近江の本宅を頂点に、出店・枝店を設けて油断なく商機をうかがったのである。
- 乗合商い(のりあいあきない)
多店舗展開のための資金調達の方法として創出されたのが、乗合商い(組合商い)と呼ばれる一種の合資形態をとった共同企業の形成である。酒造業を中心とする矢尾喜兵衛家の出店網は、地元の酒造業者から施設店舗を居抜きで借り受け、奉公人を支配人として送り込むやり方で作られた。その動機には、資本の有効活用・危険分散・人材の活用という、経営合理主義が貫いていた。
- 在所登り制度(ざいしょのぼりせいど)
近江商人の奉公人制度である。近江店は、奉公人として近江出身の男子の採用を原則とし、住み込み制をとった。出店は遠国にあるため毎年の薮入りはできない。12歳前後で入店してから、5年ほど経ってから初めて親元(在所)へ帰省できる。初登りである。以後、数年たびに登りが認められ、登りを繰り返して昇進していった。このとき、商人に向かないと判断されると解雇となる場合があった。
- 行商団体
全国を商圏とした近江商人は、旅の安全のためにいろいろな方策を考案した。行商先別に、あるいは出身地別に結成された団体はその一つである。団体の目的は、お互いの競争を避け、権益や商権を確保するためにつくられ、株仲間のような同業組合の性格を持っていた。松前の両浜組、東北の恵比寿講、江戸講、和歌山へ出かけた呉服商達の若栄講、伊予松山の住吉講、北九州の栄九講などである。
- 持下り商い(もちくだりあきない)
近江商人の行商のこと。往返ともに商売をするノコギリ商いであり、活動の原点である。その行商は、小売ではなく商品を大量に扱うことのできる卸業であった。目的地の有力者に馴染ができると、商品を馬や船で送りつけておき、自分は後から天秤棒に身の回り品を担いで乗り込み、土地の商人と商談に入った。
行商は、開店後の商用の旅と同様に、各地の商況調査を兼ね、商才を磨く機会でもあった。
- 出精金(しゅっせいきん)
出店の支配人の勤務意欲を刺激するために、給料以外に利潤の一部を配当する制度のことである。出店の決算では、経営資本に対して一割ほどの自己資本利子を課し、それを組み入れた資本額を超える正味財産がその年度の利益となり、算出された利益の一部が出精金として配分された。営業の最低達成目標を示した強制蓄積制と支配人への能率刺激制を組み合わせた、出店管理の仕法であった。
- 飢饉普請(ききんぶしん)
天保7〜8(1836〜7)年の飢饉のとき、藤野四郎兵衛は郷里の窮民救助の一策として、住宅を改築し、寺院仏堂を修築した。最初、領主の彦根藩は譴責しようとしたが、すぐに四郎兵衛の真意を了解し、嘆賞したといわれる。この慈善事業が、飢饉普請と呼ばれて後世に伝えられたものである。明治19(1886)年の関東地方の飢饉においても、埼玉の騎西の出店で小森久左衛門が同様の美挙を行った。
- 定宿帳(じょうやどちょう)
致富へのスタートとなった行商の旅を、すこしでも安全で快適な便利なものにするために、近江商人は、東海道や中山道などの主な街道に定宿制を設けた。日野大当番仲間はその代表例である。宿場と定宿の所在を記した「道中定宿帳」を懐にして、長旅に出かけたのである。定宿は、情報収集の場所であり、為替の取り組みや、商品の保管を依頼するなど、商用の旅にとって大きな利便性があった。
- 進取の気性(しんしゅのきしょう)
そもそも近江商人が、60余州に分割され、260余りの諸侯が分割統治する江戸時代に、封建制の垣根を越えて北海道から九州まで全国に出向いたこと自体、進取の気性に富む人々であったことの証しである。老舗の業祖となった創業者は、売子販売、配置販売、乗合商い、利益三分主義といった経営方法を導入し、家業に関連した分野で有望であれば、多業種多商品を手がけることを躊躇しなかった。
- 信仰と家業
幼児から宗教的雰囲気のなかで育った近江商人は、家業の永続という、独力では届かない強い願望を実現し、困難な営利活動を支える精神のよりどころを信仰に求めた。信仰は悪心を抑え、無益な散財を防止し、家業永続の助けとなった。熱心な浄土真宗の信者であった初代伊藤忠兵衛は、宗教による人格の向上を期待し、有無相通ずる商売は菩薩の業であると信じて、店員とともに朝夕念仏を唱えた。
- 他国者意識(たこくものいしき)
遠い他郷に店を構え、近江の本宅との間を往復した近江商人は、店舗を開いた地域に対して他国者意識を維持することに努めた。経営でも地域の人々への配慮を怠らなかった。寛延2(1749)年、秩父に開店した矢尾喜兵衛家では、百年後の安政年間になっても奉公人に対して、自分達のように他国で商売している商人は地元の商人とは立場が違うから、身持ちを正しくしなければならないと諭した。
- 創意工夫(そういくふう)
一般に商家の家訓は、才覚を働かせて新しい事業を始めることに否定的である。しかし、外村与左衛門家の「心得書」には、伝来の家業といえども、時宜に応じて変えていかねばならないのであり、熟慮の上で改革せよと述べられている。奥井万吾も西洋に劣らないように、油断なく日夜工夫出精せよと説き、中江勝治郎も、時運の趨勢に遅れないように日々新工夫を廻らすことを大いに奨励した。
- 始末と吝い(しまつとしわい)
一代で8万両を超える資産を築いた初代中井源左衛門は、始末と吝いの違いをわきまえていないと普通の金持にはなれないという。両者は、支出や消費に対する姿勢の違いを意味している。始末とは、モノを消費しても、その本来の効用を消費し尽くすことによって、真にモノを活かして使うような姿勢である。吝いは、目先の欲得にとらわれて、本来必要な支出や消費までも厭う守銭奴の態度のことである。
- 陰徳善事(いんとくぜんじ)
人に知られないように善行を施すことである。陰徳はやがては世間に知られ、陽徳に転じるのであるが、近江商人は社会貢献の一環として、治山治水、道路改修、貧民救済、寺社や学校教育への寄付を盛んに行なった。文化12(1818)年、中井正治右衛門は瀬田の唐橋の一手架け替えを完成した。1000両を要した工事の指揮監督に自らあたり、後の架け替え費用を利殖するために2000両を幕府に寄付した。
- 正当な利益
石田梅岩は、商人の売利は武士の家禄と同じ正当なものであり、職分において商人と武士に違いはないと主張したが、近江商人は梅岩の思想の実践者であった。中井源左衛門家の家訓「中氏制要」は、人生の目的はまじめに働くことであり、そうして得た利益は真の利益であると喝破している。これは、万物の流通調整を通して、誠実に社会に貢献して得た正当な利益であるとの固い信念を示している。
- 押込め隠居(おしこめいんきょ)
当主を強制罷免することである。正当な利益を積み上げて築かれた家産を、一己の欲望のために傾けるような当主が出現した場合は、後見人や親族が協議して当主を押込め隠居の処分にした。これは家訓でも認められており、単なるお飾りの文言ではなく、実際に発動されたことのある、生きた条文であった。積み上げられてきた家産は当主の私物ではなく、一種の法人財産と見なされていたのである。
- 社会認識
近江商人は、天秤棒をかついだ小商人のときから、世の中や、世間のなかでの商いであるという社会認識に目覚めていた。小野 善助は、半生を記した遺言のなかで、行商期間は、随分と人情に叶うように気を配り、常に相手の身に良かれと心掛けて働いたと語り、初代小林吟右衛門も、小商人も世の中の一員としての自覚をもって、絶えず周囲や世間を思いやりながら働くことの重要性を述懐している。
- 妻の役割
近江店の当主は、見せ廻りに出かけることが多く、留守宅の妻には「関東後家」などの陰口が残っているが、留守中の妻の仕事は多岐にわたった。出店へ送る食糧や仕着施の準備、蒲団の打ち直し、入店希望者の教育があり、店でしくじった奉公人の再教育も引き受けた。なかでも子弟や後継者の育成は重要な役目であった。単なる人の妻や子供の母親というより、事業のパートナーという側面が強かった。
- 売って悔やむ(うってくやむ)
卸業を中心にした近江商人の販売の極意である。商品の販売は、顧客の望むときに、そのときの相場で損得に迷わず売り渡し、先々の値上がりを思惑して売り惜しんではならないという。売った方が、安売りしすぎたかなと悔やような取引であれば、買い方の商人にも利益のでることは間違いないのであり、売り方も買い方も双方満足する。将来を考えた長続きする取引への配慮を促した文言である。
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